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由希奈からの電話で聞き書きしたファームの名前には、はじめ覚えがなかった。けれど、すぐにわかった。そこはどんな理由なのか、名前が変わっていた。前身であるファームは、昔から、隆也がよく憧れを口にしていたファームだった。
隆也は間違いなく、そこにいる。そこへ行けば、きっと隆也に会える。
全身が俄(にわ)かに熱を帯び、後に倒れそうになり、理玖が昼寝をしているベッドの端に腰掛けた。
会って、どうしたいのだろう。
なぜなの?と。
なぜ、黙っていなくなったのかと訊きたいのか?もう自分が嫌いなのか?それとも、はじめから好きですらなかったのか?
急に、今出かけるべきは自分一人であることに気づいた。
これは、理玖と自分と隆也の問題ではなく、隆也と自分の問題なのだ、と。
新千歳空港まで行けば、車で一時間もかからない。北海道まで行けば、なんとかなる。
急いでいつものカーキ色のバッグに、理玖の着替えやおむつ、哺乳瓶などを詰める。
ベビーカーを押して、最寄り駅まで進む。
ちょうど帰宅ラッシュの時間だったこともあり、駅はごった返していた。理玖は抱き抱えたのだが、泣き出して止まらなくなり、ベビーカーも畳んだところで身動きが取れなくなった。
途中の駅で降りて、莉子に電話をした。
「やっぱり、直接タクシーで莉子さんの家まで向かいます。近くで待ってていい?」
仕事中だったはずだが、莉子は小声で、
「それなら、なんとか、M駅まで来られる?」
と、仕事場のある最寄り駅を口にした。
莉子は今、サウナのある施設で、マッサージの施術の仕事をしている。なんとそこには、付属の保育施設があるのだそうだ。自分の子でもない理玖を預けられるのかと訊いたら、
「そこはちょっと嘘つかせてもらうよ」
と、カラッと言った。
「うちの子に、する」
「何日かはかかるかもしれないけど、本当にいいの?」
「なんとかするよ。だめなら仕事休めばいいし。ようやく見つかりそうなんでしょ?」
指定された最寄り駅でタクシーを降りると、施術用のピンクのストライプの制服を着た莉子が、汗ばんだ顔で、待っていてくれた。かっこいいとは言えない制服なのに、一つに結んだ髪が首の後ろのいい位置にあり、洗練されて見えた。
思わずそれを伝えると、
「そんなことに気づく余裕があるとは、感心。本当は、ついていってあげたいくらいだけど、代わりに、リクくんをしっかり見ているから。ちゃんと話しておいで」
ベビーカーのハンドルを、莉子が受け取る。
「リクくんの分の荷物、こっちに移して」
「あ、それ全部、理玖の」
そう言われて、ベビーカーにかけてあった、カーキ色のバッグを指さす。
自分は、ショルダーバッグ一つになった。
「潔いね。丸腰で行きますか」
呆れたような顔で笑ってくれたのが救いだった。
理玖が、またぐずり出し、こちらに向かって手を伸ばしてくる。
「リクくんも、覚悟を決めよう。ママきっと、父ちゃん、捕まえてくるから」
と、ベビーカーのシートで身を逸らしてむずかる理玖の頭を撫でる。きっと今日はしばらくこんな風かもしれない。
「莉子さんしか頼る人がいなくて、本当にごめん」
「いいから、早く行きなよ。旦那ね、あなたの顔を見たら、逃げ出すかもしれないよ。それも、覚悟してるよね?」
逃げ出す隆也は、想像もつかなかった。ただ、頷くしかなかった。想像なんて、何一つ出来はしないはずだった。ここまですべてが、想像もしなかったことの連続だったのだから。
「じゃあ、行きます。また、連絡します」
地下鉄への階段を下りていく。ベビーカーも荷物もなく、莉子の言う丸腰で階段を下りるのは久しぶりだった。途中、振り返ると、もう二人の姿はなく、そこにはぽっかり開いた地上への出口と、茜色に染まり始めた空が見えた。
羽田から最終の飛行機に乗って、北海道に着いた。もう22時を回っており、新千歳空港に直結したエアターミナルホテルで一泊した。ほとんど寝付けなかったのは、気持ちが昂(たかぶ)っていたのもあるが、乳房も張ってきた。なんとか自力で搾り出し、氷をもらって冷やし、心の中で理玖に話しかける。ママ、もう一度だけでもいいから、理玖をパパに合わせてあげたいよ。
翌朝になると、部屋に、少しすえたようなミルクの匂いが漂っていたが、だいぶ乳房の熱は引いていた。
幾つかあるレンタカー会社から、安価で小型車を借りられる先を見つけ、手続きをした。運転はほとんどしたことがないが、免許ならあるのだから、自力で行くしかない。
空港からバスで向かった先のレンタカー店で、キャップにジャンパーを着た若いスタッフに簡単な操作を習い、行き先をナビゲーション・システムに入れてもらうところまでを頼もうとした。スタッフは、それくらいは自分でやってほしいな、とばかりに肩を竦(すく)めたが、メモ書きしてきた行き先のファームの名を告げると、すぐに、うーんと首を捻(ひね)った。
「ファームって言っても、広いですよ。僕もそっちの出身ですけど、どの建物へ行きます?」
「決めないと、ですよね?」
「そうですよ。厩舎だけでも何十もあるらしいから。よくみんな迷うみたいですけど」
由希奈からは、そこまでは聞いてこなかった。ただ、由希奈の母は、馬主として訪ねた、と言っていた。
「馬主、は、どこへ行きますか?」
「お客さん、馬主なんですか?」
と、こちらを眺め、また首を傾げ続ける。
「まあ、いいですけど、観光客も受け付けていないみたいですけど、一応、ここにある住所を入れておきますね」
「夫が、働いているらしくて」
ただ、急に、正直にそう話したくなった。
「らしくて?」
と、苦笑いしている。
「とにかく、安全運転で、行ってらっしゃいませ」
と、車の外に立つとドアを閉め、キャップを外して、おじぎした。




