
由希奈から聞いていたファームは全体が緑色の宇宙基地のようになっていた。あちらこちらに異なる形の放牧地や、競走馬のための円形のランニングロードがあった。
幾つもつながる放牧地が、果てしなく広がって見える。木柵に囲われた放牧地の中を、それぞれにわずか数頭ずつ、広々と用い、駆け回っているのは、もちろん毛並みのいいサラブレットたち。たてがみをなびかせて、まだ、かなり若いだろう馬たちが互いを楽しむようにギャロップしていた。
いつか夢に見たようなそんな光景だった。
リュウ、あなたはここにいたんだ。
どこか虚しいような気持ちに、胸が押しつぶされそうになる。
ここはまさに隆也の好きな場所だった。いや、自分だって、大好きだ。
ずるいよ。ずるすぎる。
こんな見事な楽園で、息子や私のことはすっかり置き去りにして、暮らしていたっていうの?私たちは、あなたの安否すら案じていたというのに、あなたはこんな恵まれた場所にいたというの?
リュウ、出てこい。今すぐ、ここに来なさいよ。叫んでやりたいのに、厩舎を前に立ち尽くしてしまう。
学生の頃から、ここは、馬術部では皆が憧れた町だった。ファームが点在し、名だたる競走馬たちを育てている町。特に、このファームは前進の頃から、離乳直後の馬たちを競走馬に育成していくための、中期育成牧場で知られていた。馬の小学校とも呼ばれていたはずだ。
「同じ学校でもさ、馬の学校だったら、楽しいんだろうなとか思っちゃうんですよね、私は」
と、冗談めかして隆也が口にした言葉を、今頃になって思い出していた。
理玖が生まれたばかりで、こちらは毎日、夜になるとヘトヘトで、仕事から戻った隆也の戯言など、真に受けている余裕もなかった。本当にそんな望みがあったのなら、ちゃんと言ってくれたらよかったではないか。
見事な、放牧地。
緑の草が一面に広がり、馬たちが光を浴びている。人間はその陰になって、彼らを育み、支える役に徹するのだろう。自分が陰でいられる場所。
穏やかな風が吹いていた。
夫は、逃げた、のではなかったのだ。彼にとっての楽園に飛び込んでいたのだ。
大好きな馬たちを日がな眺めている。
さぞ満足しているだろう。
でも、なぜ、たったひとりの息子ではいけなかったの?光の中に眺むるのは、馬たちでなければいけなかったの?なぜ、家族と一緒には飛び込めなかったの?今更訊いても仕方のない言葉を飲み込む。大きな空が、迫ってくるようだった。なんて美しい、大きな空。余計に泣きたくなった。
「あの、観光の方でしょうか?」
不意に声をかけられ、振り返ると、ファームの名が印刷された紺色のポロシャツに、キャップを被った眼鏡の女性が立っていた。
首を横に振ってしまう。
「そうではないです」
女性が、少し驚いた目をこちらに向けたから、よほど口調が強かったようだ。
「でしたら、ご用件はなんでしょうか?ここ、一応、観光の人たちは受け付けていないものですから」
観光なんかであるものか。そんな悠長なことが、今の自分に、できるはずがなかった。
「動物に病気の心配とかもあるので」
黙っていると、少しきつい口調に変わった。
斜め掛けにしてきたポーチから、写真を取り出す。
「この人を、探しています」
朝の光の中で、隆也がコーヒーカップを手に写っている貴重な写真。そしてもう一葉は、生まれたての理玖を抱いている写真だ。
彼女は、軍手を外してズボンの後ろポケットに収めると、写真を手に取った。眼鏡のフレームの中央に手をやった。女性の瞳が揺れていたのがわかった。
「夫なんです。ここで働いているのを見たという人がいて来ました」
彼女は写真を、押し戻し、少し、声を詰まらせた。
「その人は、そうですね、どうなんだろう」
不思議な返事だった。
「いるんですね?連れてきてもらえませんか?」
「どうかな。私にも、わからない」
そう言うと彼女は、踵を返した。グレーの長靴を履いた足が、やがて放牧地の奥にある、厩舎へと向かって駆け出した。しばらくすると、そこから作業服を着た人たちが、複数ぞろぞろ出てきた。固唾を飲んで見渡した。だが、その中には隆也の姿は見当たらないようだった。
自分の鼓動が、内側を通じて再び大きく響いてくるのが聞こえるほどだった。
「あなたの顔を見たら、逃げ出すかもしれないよ」
M駅でそう言った、莉子の声を思い出す。ベビーカーの中の理玖はぐずって、手足をばたつかせ、こちらにその丸い手を伸ばしてきたのだ。
同じユニフォームを着た厩舎の人たちが、複数こちらを見ていた。一人だけ、年配の男性がスコップを置いて、こちらに向かって歩いてきた。
「なんでした?うちのファームに、お宅の旦那さんがいるとかって聞きましたけど」
「写真を見ていただけますか?」
もう一度バッグから取り出そうとするのに、男はそれをチラと見ただけで、手で制した。
「悪いけど、ここにはそういう人はいないですよ」
返事ができない。ただ、相手の目をじっと見ていた。日に焼けた皮膚に深く皺の寄った顔の中で、優しい馬の目と、どこか似ていた。そんな嘘をつかせて、申し訳ないと感じた。
「あの、会うまで帰らないと、夫に伝えてもらえますか?」
馬舎の前では、先ほどの眼鏡の女性と、その横に長い黒髪を結んだ女性が、心配そうにこちらを見ていた。
もしかしたら、と、不意に浮かんだ思いがあった。夫はここで、誰か女性の世話になって、生きているのかもしれない。ようやく、そう思い当たった。夫は、一人で身の回りのことが満足にできる人間ではなかった。それだって、勝手に思い込んでいただけなのかもしれない。
「とにかく、待っていると伝えてください」
「だからさ、誰に伝えるってさ」
その言葉は、彼に似合わず乱暴に響き、さらに続いた。
「うちも、たくさんスタッフがいるしさ。なんか、電話番号でも置いていってもらえますか?もし、誰か心当たりがいたら伝えるようにしますよ」
慌ててバッグを探す。取り出したティッシュペーパーに、なんとかボールペンで電話番号を書いて渡した。ティッシュを取り出す際にバッグにあったパペットが、砂利道に落ちた。ティッシュに書いたメモを手渡し、パペットを拾う。理玖によく似た子、丸い鼻は、オレンジ。黄色い頭に赤い胴。頭の先にはまだまばらな緑色の髪がまっすぐ立っている。
理玖を思い出すと急に、自分の手が、情けないが震えていた。
「とにかく、ここには宿泊できる場所もないし、一旦はお引き取り願えます?」
受け取ったティッシュを、その人は乱暴には扱わず、四つに畳んで持ってくれた。やはり、優しい人なのだった。
「あと少しだけ、あの馬を見ていて構いませんか?」
指をさす。このまま終わってしまうのかもしれなかった。そうしたら、また、夫の居場所さえわからなくなってしまう。
なのに、こんな時でも、馬の美しさに見惚れてしまう気持ちが自分にも残っているのにも驚いていた。中でもあの鹿毛は、きっと蹄鉄を嫌がっていて、それに抗う姿を自らのエネルギーのように表していた。きっと打ったばかりなのだ。蹄鉄を打ちたての馬など、馬術部では、ほとんど会えなかった。大学で引き取ったのは、皆、引退した競走馬たちだった。
美しい毛並みの内側に、筋肉の隆起がはっきりと見えた。しなやかに動き続けた。
「あの鹿毛のことなら、ディープインパクトの血筋なんだわ」
「すごいな。だから、なんだ」
だから、なんだと言うつもりだったのだろう。だから、美しい?いや、確かに美しいけれど、とにかく暴れ馬のごとく、目立っていた。
「蹄鉄を嫌がる馬は、後で強くなることが多いんだ。あんたも、馬が好きなのかい?」
「いえ、もうずっと忘れていました」
「忘れるのも、大事だからね」
「待ってください」
その人は、忙しいとばかりに背を向けて、手をあげる。勝手なことは、言わないでほしい。それで済むはずがないではないか。
彼は黙ってその場を離れ、キャップを取り上げて、髪を掻き上げる。
放馬されている場の奥に建つ、緑色の屋根の家屋の方へと向かった。その時、厩舎の前にいた女性たちに指で合図を送った。女性たちも、家屋へと向かった。




