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うさぎの耳〈第十話〉とうきびのパペット|谷村志穂

うさぎの耳〈第十話〉とうきびのパペット|谷村志穂

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砂埃が、ゆっくりと鎮まっていった。

先ほどの女性たちが、トラックに向かって小走りに駆けていき、停車した車の運転席の窓が下がった。

ハンドルを握っているのは、キャップをかぶった男、遠くてよく見えない。声も聞こえない。

けれど、それは夫だ。夫の形をした男だ。間違うはずがない。

女性たちが、必死に何かを話しているが、男は動かない。

これまでも、よく見ていた光景だ。周りにエネルギーが渦巻いているような時、彼は透明になっていくようだった。

自分の足が、一歩、二歩と前に出て、やがて駆け出すのを止められなかった。

じきにエンジンをふかす音が響き、車は後退りするようにバックする。再び、砂埃。栗毛の馬は、揶揄(からか)うように、前足を高くあげて、嘶(いなな)いた。

車は来た道を戻っていく。

待って、止まりなさい。

逃げないで。

追いつくはずもないのに、必死に駆けていた。

「あなたは、理玖のお父さんでしょう」

声にもならない声をあげる。

女性たちが俯いたまま、三三五五、連れ立って厩舎へと戻っていく。

すでに行ってしまったトラックの後を、砂埃が尾を引く。

彼女らに、助けてほしい、と思う。

同じ女性同士として、せめて話す機会を作ってはもらえないか、と、こんな時だけ都合のよい気持ちが湧く。

栗毛の馬が、なお興奮して嘶いている。

やがて私は力尽き、その場にしゃがみ込んだ。

みっともない姿には違いなかった。義母が何度も、だから隆也は帰りたくなくなるのだという言葉が思い出された。でも、それが何だと言うのだ。

向き直ると、放馬された馬たちが、柵の中をギャロップしている。それぞれのたてがみが、鈍く美しく、光を浴びてなびいていた。

心臓が、なお早く打ち続けているのがわかる。 

逃げるのか。ここまで来た妻を前にしても、逃げるつもりなのか? だとしたら、いつ、どこまで? その先に、あなたの行き着く場所はあるの?

きっとしばらく、そこにしゃがみ込んでいたのだろう。

デニムのポケットから、スマホを取り出す。

莉子の名前が、履歴の一番上にある。

通話ボタンを押す。

「もしもし?」

「美夏です。北海道に来ました。このファームに、隆也さんはいると思います。生きています」

だがなぜか、電話をかけた相手は義母だった。

しばらく無言が続いた。震えた声が返ってきた。

「思いますって何なの? あなた、何、呑気なことを言っているのよ。しっかりしなさいよ……」

予想していた通りの叱責が続き、もう耳に入らない。だがなぜなのか、温もりさえ感じ、涙が滲んだ。

もしも理玖がこんなことになったら、行方不明なんかになったら、本当はどれだけ不安になるのか知れなかった。義母も母親なら、自分の育て方を責めた日だって、あったに違いなかった。今はなんでも嫁のせいにできて、人のせいにしていたかったのではないか。

「そこまで行ったんだから、捕まえなさいよ」

「夜まで、待ってみます。また連絡します」

「ちょっと、待ちなさいってば」

 通話を切ろうとすると、鋭い声が返ってきた。

「あの子は、どうしてるの?」

「ですから、おそらくトラックを運転したまま」

「違うわよ。赤ん坊の方よ」

驚いて、訊き返す。

「理玖ですか?」

「他にいるわけ?」

「莉子さんって言う友人が預かってくれています」

「お友達が、いつまでもは無理でしょう。他人様に、甘えすぎでしょう? ご迷惑甚だしいでしょうに」

「そうだと思います」

「連れて来させなさい。お礼はしておくから」

「伝えます」

ありがとうございますって言えないの? そう続くかと思っていたのに、通話が向こうからぷつりと、切れた。想像の中の義母が、そのまま西陽の差し込むリビングを歩き回り、仏壇に手を合わせていく姿が脳裏に浮かんだ。息子が見つかったのだ、と、死んだ夫に。

莉子には、なんて伝えようか。

仕事中の時間だから、メールにすべきなのだが、声が聞きたい。

原付バイクが近づいてきて、気づくと、まだ若そうな長身の男性が、シートに跨ったまま、こちらを見下ろしていた。ヘルメットもかぶっていなかった。

「こんな人なんだ、へえ」

彼は、意味深な笑みを浮かべた。

「この後、どうするつもりですか?」

ハンドルに手をかけたまま、黒黒した瞳で、覗き込んでくる。

「夫と話せるまで、ここで待ちます」

「人違いかもしれないんじゃない? それに、不法侵入で訴えることもできるけど」

「構わないです。あれは、夫なの」

「結構、頑固だね」

返事をする気にもならず、立ち上がって、尻を払う。

「だったら、ここに、行ったら。結構、うまいよって、洒落じゃないけど」

渡された紙には、〈焼き肉H〉の名があった。

「まあ、親族がやってるんだけど、他に思いつかなかったんだろうね、あの人、仕事が終わったら行くからってさ」

紙から顔を上げてその男を見上げると、

「ちゃんと行くからって。そう言うのは、守る人なんじゃないの? ただ、よくわからない人だよね。俺はいいんじゃないのって思ってたけど、ここに置いておいても。人手としては助かっていたし。でもさ、奥さんを、こんなに困らせてちゃだめだよね」

生意気な口調でそう言うと、彼は、原付バイクで門の外へと引き返していった。

周囲に漂う草いきれに、全身を包まれたように感じた。

胸にのっていた重たい支えが解けていき、

なんとか深く息を吸う。空を見上げた。鳶が、大きく羽を広げて悠々と飛んでいる。

何度も公園で、理玖と見上げた空とは違う。吸い込まれてしまいそうな、高くて深い空が、広がっている。

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