莉子が休憩時間に電話を返してくれた。
運転していた車を農道に停車させ、午後の強い日差しはもう夕映えに変わろうとしている。
莉子は少し苛立って、煙草の煙を吐き出しながら、話しているのが伝わってくる。
「じゃあ、もう一泊だね」
こちらの事情を伝えると、腹立たしそうにため息をついた。
義母の言う通り、甘えすぎだ。義母から言われたことも正直に伝える。
「いや、あのさ、そんなこと今更言うな。違うって。頭に来るのは、あんたの旦那さ、あんたを待たせたら今日のうちに息子の元には帰れないとか、そんなことも考えなかったのかな。飛行機の最終便の時間くらい、知ってるでしょう」
「同じこと、思った」
自分だってもちろん、腹立たしかった。もう戻る宿もない。そして今は、莉子が口にする、あんたの旦那というその言葉に、生々しい像が浮かぶのも同時に感じた。彼は失踪した人間などではなく、確かに生きて存在し、このすぐ近くにいるはずの人間に取って代わったのだ。
「で?」
「でって?」
「早くしろ、今すぐ来いって、怒んなかったの? 大体、何時に来るの? 仕事終わりって、何時なの?」
重苦しくなり、車のウインドウを開ける。遠くの空に夕闇が広がり始め、虫の鳴き声が聞こえ始めた。周囲に広がる生命力、草地や樹々木や生き物のエネルギーに満ちた空気に押しつぶされそうになる。
莉子がもっともなのだ。もっともなことを言われると、苦しいのだとわかる。
生温い風が通りぬけ、火照った頬を撫でていった。
「ごめんね」
とだけ言うと、少し間があり、煙を吐き出す音が耳底に響いた。
「美夏さんを責めちゃあかんね。旦那に文句をぶちまけたくなっただけ。いや、見つかったんだから。美夏さん、とりあえず見つけたんだから、ほんとは『凄い』って言うつもりだったのに」
「時々、関西弁みたいになるんだよね」
自分の内側から、苦しい笑いが漏れる。
「理玖は、どうしていますか?」
「朝のうちは結構ぐずったみたいだけど、あと、ちょっとお友達、叩いたって言ってた」
「そうでしたか。ダメだな、理玖」
「仕方ないよ、子どもなんだから。でも、さっきこっそり覗きに行ったら、木琴気に入ってたよ」
「弾いて、た?」
「いや、棒をなめてた。それで、他の子にも、なめさせてあげようとしてた」
「木琴の、マレットのことかな」
「へえ、そう言うんだ。保育士さんからは、今日は黙って預けて欲しいって言われてて、あまり目が合わないようにしてるんだけど」
そうやって私から日を跨(また)いで離れるのも、他の子どもたちと交わるのも、理玖ははじめてに近い。保育所に子どもを預ける、というイメージを持ったことがなかった。理玖を、他の子どもと同等に捉えていなかったのは、私の臆病さゆえだったかもしれない。理玖は、私が思うよりずっと逞しいに違いない。
「あと一日、本当に構わないですか?」
「いや、あの義母さんに会いに行くのと天秤にかけたら、私、ひと月くらいは自分で頑張れる気がするわ。だって、相当やばいでしょ、あのお義母さん」
「何も、言えません」
莉子の言葉、なぜこんなに優しく響くのだろう。辛辣そのものなのに。
電話を切って、深呼吸していると、後ろから、クラクションを鳴らされた。
すれ違うのもやっとの道だ。
ナビに入れた場所へ、とりあえず進むしかない。隆也が本当に来るのか、わからない。こうして時間稼ぎをしてまたどこかへ逃げ出すか、またはもう密かにあの厩舎へ帰っているのかも知れない。けれど、進んでいくしかない。今できることは、それしかない。
ハンドルを握る手が震えてしまう。




