一時間半は待ったはずだ。
客席は、思いの外、埋まっている。
時間ごとに煙の蔓延していく焼肉店の一番奥の席に、席を取り、今仕方なくウーロン茶を、お代わりした。
お通しの、小皿にのった塩ピーナツも、もう一度出され、二つ並んだ皿の片方に手を伸ばした。
思えば今日、それがようやく口にしたもので、塩味が効いてくる。
煤(すす)けた壁にかかった丸い時計の針は、もう十九時を回っている。
生真面目に、洗面へも立たずに、ずっと引き戸が開閉するたびに、立ち上がってしまう。
暖簾をくぐって入ってくる人らは、皆威勢がいい。一日の仕事を終えて、ビールと肉で満たされようと前のめりだ。
なぜ、こんな場所を指定してきたのだろう。他には思い当たらなかったというのだろうか。なぜ、ファームでは話せなかったのか。やはり、来るつもりなど、なかったのか。
今ならまだ、空港に駆け込めば、ぎりぎり二十一時過ぎの最終便に間に合う。
いや、いつまでだって待ってやる。もうずっと、待ち続けてきたのだから。
ただ今は、そばには理玖の温もりも笑顔もない。理玖に支えられていたのは自分の方だった、とこんな時に感じる。
「あの、なんか、焼きます? それとか、とうきびでもやるかい?」
「とうきび?」
「内地の人かい? とうもろこしでも召し上がりますか? だもね」
Tシャツにねじり鉢巻の従業員が、快活に話しかけてくる。とうきびは、とうもろこしのことだと気づく。
「はいよ」
返事もしていないのに、青い絵を描かれたプラスチックの皿に半分に割った茹でたとうもろこしが二つのせられて、運ばれてきた。
手を伸ばし、顔に近づけると、甘い匂いが漂ってきて、かじってみた。
瑞々しいクリームのような果汁が口の中に広がる。空腹だと、感じる。それだけで体の中から緊張が涙となって溢れ出しそうになる。
「ほれ、何やってんのさ」
その時、引き戸が賑やかに開き、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「もじもじしてないで、入んなよ。奥さん、ちゃんと、来てるしょ」
こちらを見て、言う。
「ちゃんと行ってくれないと、俺、嘘つきになるべ」
押し込まれるように入ってきたのは、俯(うつむ)いた髭面の男だった。すっかり日に焼けて、髭だらけで、キャップを被っていた。
まだ学生のような若者に、一つ頭を下げた。
とうもろこしを手にしたまま、私は呆然と見つめていた。
汚らしいが、やはり間違いなく隆也だった。こちらを認め、店の奥まで進んできた。
「座るよ」と、許可を取るかのように、懐かしい声が呟いた。
なぜ、そんなことは確認できるのに、黙って私たちの元から消えたのだろう。用意周到に、自分を消し去ろうとしたのだろう。
けれど、隆也は目の前にいる。あっけないくらい当たり前に見える。
「元気そうだね」
皮肉でしかない。元気でなんかいて欲しくなかった。私と同じくらい、またはそれ以上に苦しんでいて欲しかった。
口元を微かに動かし、隆也は苦笑したように見えた。
「うまいだろう? ここのは、朝、穫ったのだからさ」
「そんな話をしに来たわけじゃない」
「でも、ここに黄色いの、ついてるし」
隆也はそう言って、口元まで指を伸ばしてきた。温かい指が口元に触れ、びくりと反応してしまう。
「美夏も、元気そうで安心したよ。ビールって言いたいけど、車だしな。すみません、俺にもウーロン茶をください。それと、枝豆」
まるで、昨日も今朝も一緒だったかのように、従業員に注文を出す。
まるで失踪した時間の記憶をすべて失ったかのように、彼は安らいで見える。
私も同じように全ての記憶を消すことができたら、元に戻れるのか。戻りたいのか。
隆也が突然消えてから、毎日毎日必死に生きた時間、理玖が少しずつ成長した時間、消し去ることなどできるはずがない。
「私、ひどいことしたよ。馬術部に、あなたの公開捜査を頼んだの。夫が行方不明ですって情報を拡散してもらった。あなたらしき人が現れるたびに、白坂や美咲が訪ねて行ってくれた。訪ねさせちゃったのは、私。お義母さんにも叱られた。だから今は、あなたが行方不明だったことを知っている人が、世の中には思わぬほどたくさんいるかもしれない」
実際、隆也が働いていた学校関係者からも、問い合わせの連絡が届いていた。
彼は、聞いているのかいないのか、運ばれてきた枝豆を口にして、
「うまいよ、これも」と、差し出してくる。「あれ、やっぱり由希奈の母親だったんだろうな。この間、東京から来た馬主さん」
「そうだよ。それで慌てて、来た。あなたに違いないってはじめて思う情報だった。一体、なんだったの? どうして黙っていなくなったの?」
枝豆を口に含み、視線を上げぬまま、
「少し肉も焼こうかな。すみません」
隆也は、従業員を呼ぶ。
「答え合わせにはならないよ。俺の話を聞いたところで、きっと、美夏の気持ちは収まらない」
「嫌になったの? それすら、言えなかったの? 理玖との生活から逃げ出したかったの? 息子の障害が怖かった? 一緒に乗り越えようとは思わなかったの? 一度も、理玖を思い出さなかった? 会いたいと思わなかった?」
声が上擦って、震えていた。毎日、毎日心の中にあった問いかけが、溢れるように口から出ていった。
隆也はずっと下を向いていた。
「それとも、ここの女の人と、新しい生活を始めたの? あのファームの人たち、寄ってたかって、どうにか私を追い返そうとしてたよ」
これは、今日生まれた質問。
毎日生まれる質問、毎日生まれるパペット、今日なら、このとうもろこしを頭に載せたパペット、編みたいけれど、とても私の手には負えないだろう。
不意にそんな呑気なことを考えている。

目の前の節くれだった手が、握ったり、緩めたりを繰り返していた。
「国語の教師だったくせにな。俺。ただ、消えてしまいたいと思った。でさ、だったら死にたいのかって思うだろう。違ったんだよね。単純に言えば、何かを探そうと、してた気がする。何か、なのか、どこかなのか」
「何言ってるのか、全然わからないよ。それが、ここだったって言うの? ひどいよ。それが、私たちのいた場所じゃなかったってことなんでしょう? だったら、嫌いになったって言ってくれた方がずっといいよ」
黒い丸皿に盛られた肉が、運ばれてきた。
隆也はもう何も答えなかった。黙って肉を焼き始めた。
「うまいよって、ファームではダジャレなんだけど」
心は煮えくりかえるようなのに、空腹を覚える。
「美夏は、変わらずいられたんだね。強烈でしょ、うちの真智子」
焼き始めた肉を、隆也がトングで双方の皿に乗せる。
「あの人の息子なんだよ。美夏の思うような人間じゃないんだ、俺は」
自分は誰よりあなたをわかっている、今更そんなことが言えるはずもなかった。
「食べてよ。ここまで来たんだから」
「しばらく、ここにいるつもりなの?」
距離は、ちっとも縮まらなかった。
「いいから、食べなよ」
少し間があり、まるで出会った同級生の頃のように隆也が自分に笑いかけた。




