砂埃が、ゆっくりと鎮まっていった。
先ほどの女性たちが、トラックに向かって小走りに駆けていき、停車した車の運転席の窓が下がった。
ハンドルを握っているのは、キャップをかぶった男、遠くてよく見えない。声も聞こえない。
けれど、それは夫だ。夫の形をした男だ。間違うはずがない。
女性たちが、必死に何かを話しているが、男は動かない。
これまでも、よく見ていた光景だ。周りにエネルギーが渦巻いているような時、彼は透明になっていくようだった。
自分の足が、一歩、二歩と前に出て、やがて駆け出すのを止められなかった。
じきにエンジンをふかす音が響き、車は後退りするようにバックする。再び、砂埃。栗毛の馬は、揶揄(からか)うように、前足を高くあげて、嘶(いなな)いた。
車は来た道を戻っていく。
待って、止まりなさい。
逃げないで。
追いつくはずもないのに、必死に駆けていた。
「あなたは、理玖のお父さんでしょう」
声にもならない声をあげる。
女性たちが俯いたまま、三三五五、連れ立って厩舎へと戻っていく。
すでに行ってしまったトラックの後を、砂埃が尾を引く。
彼女らに、助けてほしい、と思う。
同じ女性同士として、せめて話す機会を作ってはもらえないか、と、こんな時だけ都合のよい気持ちが湧く。
栗毛の馬が、なお興奮して嘶いている。
やがて私は力尽き、その場にしゃがみ込んだ。
みっともない姿には違いなかった。義母が何度も、だから隆也は帰りたくなくなるのだという言葉が思い出された。でも、それが何だと言うのだ。
向き直ると、放馬された馬たちが、柵の中をギャロップしている。それぞれのたてがみが、鈍く美しく、光を浴びてなびいていた。
心臓が、なお早く打ち続けているのがわかる。
逃げるのか。ここまで来た妻を前にしても、逃げるつもりなのか? だとしたら、いつ、どこまで? その先に、あなたの行き着く場所はあるの?
きっとしばらく、そこにしゃがみ込んでいたのだろう。
デニムのポケットから、スマホを取り出す。
莉子の名前が、履歴の一番上にある。
通話ボタンを押す。
「もしもし?」
「美夏です。北海道に来ました。このファームに、隆也さんはいると思います。生きています」
だがなぜか、電話をかけた相手は義母だった。
しばらく無言が続いた。震えた声が返ってきた。
「思いますって何なの? あなた、何、呑気なことを言っているのよ。しっかりしなさいよ……」
予想していた通りの叱責が続き、もう耳に入らない。だがなぜなのか、温もりさえ感じ、涙が滲んだ。
もしも理玖がこんなことになったら、行方不明なんかになったら、本当はどれだけ不安になるのか知れなかった。義母も母親なら、自分の育て方を責めた日だって、あったに違いなかった。今はなんでも嫁のせいにできて、人のせいにしていたかったのではないか。
「そこまで行ったんだから、捕まえなさいよ」
「夜まで、待ってみます。また連絡します」
「ちょっと、待ちなさいってば」
通話を切ろうとすると、鋭い声が返ってきた。
「あの子は、どうしてるの?」
「ですから、おそらくトラックを運転したまま」
「違うわよ。赤ん坊の方よ」
驚いて、訊き返す。
「理玖ですか?」
「他にいるわけ?」
「莉子さんって言う友人が預かってくれています」
「お友達が、いつまでもは無理でしょう。他人様に、甘えすぎでしょう? ご迷惑甚だしいでしょうに」
「そうだと思います」
「連れて来させなさい。お礼はしておくから」
「伝えます」
ありがとうございますって言えないの? そう続くかと思っていたのに、通話が向こうからぷつりと、切れた。想像の中の義母が、そのまま西陽の差し込むリビングを歩き回り、仏壇に手を合わせていく姿が脳裏に浮かんだ。息子が見つかったのだ、と、死んだ夫に。
莉子には、なんて伝えようか。
仕事中の時間だから、メールにすべきなのだが、声が聞きたい。
原付バイクが近づいてきて、気づくと、まだ若そうな長身の男性が、シートに跨ったまま、こちらを見下ろしていた。ヘルメットもかぶっていなかった。
「こんな人なんだ、へえ」
彼は、意味深な笑みを浮かべた。
「この後、どうするつもりですか?」
ハンドルに手をかけたまま、黒黒した瞳で、覗き込んでくる。
「夫と話せるまで、ここで待ちます」
「人違いかもしれないんじゃない? それに、不法侵入で訴えることもできるけど」
「構わないです。あれは、夫なの」
「結構、頑固だね」
返事をする気にもならず、立ち上がって、尻を払う。
「だったら、ここに、行ったら。結構、うまいよって、洒落じゃないけど」
渡された紙には、〈焼き肉H〉の名があった。
「まあ、親族がやってるんだけど、他に思いつかなかったんだろうね、あの人、仕事が終わったら行くからってさ」
紙から顔を上げてその男を見上げると、
「ちゃんと行くからって。そう言うのは、守る人なんじゃないの? ただ、よくわからない人だよね。俺はいいんじゃないのって思ってたけど、ここに置いておいても。人手としては助かっていたし。でもさ、奥さんを、こんなに困らせてちゃだめだよね」
生意気な口調でそう言うと、彼は、原付バイクで門の外へと引き返していった。
周囲に漂う草いきれに、全身を包まれたように感じた。
胸にのっていた重たい支えが解けていき、
なんとか深く息を吸う。空を見上げた。鳶が、大きく羽を広げて悠々と飛んでいる。
何度も公園で、理玖と見上げた空とは違う。吸い込まれてしまいそうな、高くて深い空が、広がっている。




