「何か答えてよ。隆也がいなくなってから、私の中に起きたこと、みんな話そうか? お母さんの家で、小さな角部屋をもらって、毎日雨の日も雪の日も二人で公園に行って、あなたがどこに行ってしまったのか、なぜいなくなったのかを考え続けた。私たちの最後の食事は、昼ご飯で、あなたが作って大皿によそってくれた焼きうどんだった。何も特別ではなかった。二人で美味しいって食べた。最後に二人でセックスした日のことだって、覚えてる。深夜で、まだ私の髪は濡れていて、冷たいねって笑った。何も、特別なことなんてなかったはずだよねって、記憶を辿り続けて。それなのに、夜中になると、私は、あなたのぬくもりが恋しかった。身悶えする日だってあった。このまま一人の女としては、終わりなのかとも思った。寂しさを埋めようとして、理玖にすがっていたのは、たぶん私」
隆也は驚いたように、こちらを見上げた。
「美夏、ずいぶん話すようになったね。母は強しなんだな」
「急に、一気に話しちゃってばかみたいだよね。最初の三ヶ月くらいは、誰とも話していないような毎日だったから。公園にずっといて、理玖もベビーカーの中で空を見ていて、でも、もともと自分はそんな人間だったと思ったこともある。莉子さんと会って、ようやく話し相手ができたんだけど」
そんなつもりはなかったのに、必死に時間を埋めようともがいていた。離れていた間に何があったのか、どう感じていたのか、夫に知らせたかった。
「誰も嫌いになったりしていないよ。それに、ごめん、美夏って、確かにそういう風だったよなとも思いながら今は聞いてた」
「そういう風?」
「いや、いきなり大胆なことを言うところ、とかさ」
「そういう風が、嫌いだった?」
「いや」
と、首を横に振る。
「北海道にいたいなら、理玖と私でこちらに来るよ」
「ちょっと考えさせて」
「だったら明日の朝は、防風林を一緒に見に行かない? 約束したの、覚えてる?」
「長野駅だったかな。そうだね、ポスターを見て、約束したね」
隆也の澄んだ瞳が、ようやくこちらを向いて輝いて見えた。
「ごめん、ちょっと手洗いに立つよ。すっかり焦がしちゃったな」
手洗いに向かいながら、隆也は店員に「申し訳ありません」と、焼き網のことを話している。
頭に日本手拭いを巻いた店員が、慣れた手つきで、網を交換に来て、
「口に合わんですか? うちの肉、食べてってくださいよ、せっかくなんですから」
と、こちらに微笑みかける。
表面に何も載らないまま、新しく替えられた焼き網が赤く熱されていく。それはそれで、塗られた油なのか、熱されて煙を上げていく。
それから、何分くらいが経っていたのだろう。
「あの、どうします? 相手のお客さんは、もう帰られたんだよね。そっちの裏の方から」
手拭いの店員が、申し訳なさそうにそう告げに来た。
私はあの後、どうやって帰ったのだろう。
新千歳空港の手前でレンタカーを返し、レンタカー店のマイクロバスで、夜のがらんとした空港へと送られたはずだ。
東京行きの飛行機はすでに最終便が過ぎ、空港内の飲食店は、どの店も、シャッターを閉めたり、車輪付きのカートを納めたりして、店仕舞いを始めていた。
それでも空港内は煌々と明るく、私は途方に暮れたまま、空港内の広い構内を幾つかのウイングを行き来しながら、エレベーターで上がったり、下りたりをしていた。
何のためにここまで来たのだろう。すぐ目の前にいた夫に、一方的に話し続けたのは私だ。彼は結局、ほとんど何も話してはくれなかった。そして、また黙って、逃げた。再会して何の意味があったのだろう。感情に整理がつかず、ただ、再び逃げられたことを、自分に言い聞かせるしかなかった。
空港内の入浴施設があるのが、途中目にした案内表示にあった。矢印の表示の通りにエレベーターで最上階まで上がっていき、受付を済ませた。矢印という今頼るべき道標があるのが、ありがたかった。
積極的に風呂に入りたかったわけではない。休憩室にそのまま入っていき、座椅子がずらりと並んだ、照明の落ちた空間、皆が前を向いて黙って座っており、これから始まる神からの何かしらの宣告の順番待ちをしているようにも見えた。
空いていた椅子を陣取り、背もたれを倒し、そのまま目を瞑りそうになり、スマホを取り出す。
〈ごめんなさい。明日一番で帰ります。実はまた夫に逃げられました〉
〈どういうこと? イマ、話せる?〉
すぐに既読がついて、莉子から慌てた文字使いで返信があった。
〈今は無理で、明日話します。莉子さんの家に真っ直ぐ向かいます〉
〈そうか、無理なら、しょうがないね。じゃあ、理玖くんのことは安心して〉
その返信メールまでは、少し間があった。
怒っていておかしくはない。または、呆れているか。理玖まで預かってもらっていながら自分だって、ただ、話すことからさえも逃げていた。話す気力すらないのだ。情けなくて、自分でも整理ができていない。多分、私が失敗したのだ。夫との話し合いに。
焼肉屋で、あの煙の充満した店で、私はようやく会えた夫に、一体、何を話したのだろう。いや、話してしまったのだろう。母乳が溢れて仕方がないとか、夜になると身悶えするとか、そんなばかみたいなことばかり話したのではなかったか。なぜ、理玖がどんなに朗らかで、強くて、逞しくなったのか、体重や、手足がムチムチしてきたことや、お風呂で大声で歌うこと、何も伝えなかったのだろう。自分のことばかり、話してしまった。
この先のことは何一つ、約束もできないままに、また夫に逃げられた。裏口から、彼は逃げていったのだ。
莉子にも、義母にもどんな顔をして会えばいいのか。理玖には、いつかこの日のことを話せるのだろうか。それとも、もう父親はいない人として自分は話すだろうか。




